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「人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を 吾は行なり 寸心」とある。(寸心という名を禅寺でもらい、寸心先生とも呼ばれていた。) 「哲学の道」は哲学者・西田幾多郎(1870~1945)が散歩していたことに由来。 彼が凄い人だと思うのは、皆が西洋哲学を輸入し分析する中、西田哲学・京都学派と呼ばれる独自の哲学を打ち出したところだ。禅寺では、とことん「考えるな」と言われ、西洋哲学では「考えろ」と言われる。この相対する教えの中で苦悩しつつ、東洋哲学と西洋哲学を融合させる。それが西田哲学だったらしい。 戦前戦後は軍や政治、戦争に巻き込まれ大変だったようだ。それがわかる記事を読売新聞・関西おもしろ文化考より一部以下に抜粋しました。『 戦後は一転、[戦争協力者]のレッテルを貼られる。 西田については、ジャーナリスト大宅壮一が「文芸春秋」1954年6月臨時号に、ある暴露記事を書いた。日本の戦争方針の根本となる大東亜会議共同宣言というものが1943年、東条英機によって発表されている。その草案を書いたのが、実は西田だったというのだ。 ![]() 真相はこうだ。確かに西田は、宣言の下敷きとなる「世界新秩序の原理」という文章を書いた。だが、その内容は、東条らには難解すぎた。そこで御用学者がやさしく書き直し、ついでに「聖戦」や「日独伊枢軸」などの言葉を勝手に挿入したのだ。 その内容を知った西田は、和辻あての手紙で「失望いたしました。あれでは私の理念が少しも理解せられてゐない」と嘆いている。 それにしてもなぜ書いたのか。 当時、軍のファシズム的戦争指導を批判していた西田が憲兵隊に逮捕される。という噂があった。そこで軍や政界に太いパイプを持つ矢次一夫が「軍が哲学者の教えを請うている」といって西田を呼び出し、東条の右腕で、陸軍軍務局長の佐藤賢了に引き合わせたうえ、身の安全を保障させたのだ。』 続きを読売新聞にて読みたい方はクリックして下さい。 さて、その後彼がどうなったのか。次の投稿で略歴と一緒に紹介します。 !お知らせ!新HPに引っ越しました。新しい情報は新HPにあります。 ■
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by ilikewalking
| 2004-02-25 20:44
| 西田幾多郎
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